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Interview: Ichiro Tezuka (VIC) (久保仁志・本間友, Japanese)

An interview with the director of the Video Information Center (VIC) Ichiro Tezuka, conducted by Hitoshi Kubo and Yu Honma on the 21st December 2016 at VIC Kichijoji Grankiosk.

インタヴュー・手塚一郎(VIC)

本インタヴューの際の手塚一郎

In conjunction with our three-month online program of the works of the Video Information Center in partnership with Hitoshi Kubo and Keio University Art Center, we are thrilled to present an interview with Ichiro Tezuka, director of the VIC, conducted by Kubo and Yu Honma. The original interview was conducted on the 21st December 2016 at VIC Kichijoji Grankiosk.

The notes inside [  ] are Kubo’s notes. The methodical ideals of VIC, that the videos “shall not be edited” have been honored, and in this interview without manipulation. This interview was first published in VIC File (Keio University Art Center, 2018.).

本インタヴューは2016年12月21日、VIC吉祥寺グランキオスクにて、VICのリーダーである手塚一郎氏(手)へ久保仁志(久)と本間友(本)によって行われた。かつてVICのテーマであった積極的「未編集」に則り、書き起こしただけで編集していない。


手塚一郎(手):この前iPhoneで横町の撮影やってましてね。これだと独特な撮り方できるから面白いね。簡単にいろいろできるなと思って。これだと、わーっと投げられるじゃないですか。

久保仁志(久):最近は、iPhoneで映画撮ったりしますしね。

手:これね、ICUの学園祭のパンフレットで、僕らがどんなことやってたかっていうひとつなんですけど。

久:もうこの時点でVICとして活動していたんですか?

手:まだICU小劇場とVICが並行していた頃でした。72年にVICつくったから。これはICU小劇場の僕の企画なんですよ。号外。学園紛争も終わり、学校側がバリケードを全部ここにつくって、革マル派とかなんか入れないようにしたやつがなくなったので。

久:学校がつくったんですね?よく学生がつくるって聞きますけど。学校が反体制的な学生を入れないように。

手:そう、昔学校がつくったのをもう一度。『平凡パンチ』のこういう中に、取材されてね。「国際基督教大学V・I・C」って4ページ取材されて。教会の前にバリケードをつくったわけですよ。あの時盛り上がって「あの興奮をもう一度」とか言って、ふざけて、ここの部分だけつくり直したんです。だからこの画角の間しかないんです。バリケード。赤瀬川原平風にこういうふうに描かせて。これ見てくださいよ、バリケードのコンセプト。やけに難しいことを考えてるなっていう。この頃は割と硬派な文章を書いてましたね。

久:「その刹那、脳髄をよぎるものを採取、燃焼せよ」。このモチーフって、ひょっとして手塚さん一貫しているんじゃないですか?

手:ですね。

久: VICをつくる以前に、手塚さんご自身何をされてたかをうかがってもいいですか?

手:国際基督教大学の学生ですね。

久:何を勉強されてたんですか?

手:ICUは、教養学部しかないんです。その中に「ソーシャル・サイエンス」っていうのがあり、始めそこでドラッカーをやってたんだけど、面白くないんで「ヒューマニ」っていう文学系のところに移って、現代美術を勉強して。ものすごいこと考えてたなって。卒論が出てきたので見せますね。「パラレル・パラノイア」っていう。

久:面白いですね、テーマが。

手:そこで基本的に一種のメディア論を最終的にはやってて、その考え。73、4年位だったと思いますけど、1回決めちゃうとその考えって超えるの難しいですね。簡単に言うと、ちょうど『Whole Earth Catalog』とかミニコミとか、そういうものが流行ってる時だったので。大きなピラミッド型の、一方向型のすごいメディアとかていうのはもう流行らないよ、参加型のメディアが必要なんだと。そのひとつがビデオで。『ゲリラ・テレヴィジョン』っていう本出ましたけれど、大体今言われてるような双方向の問題とか、もうちょっと自分たちで発信できるようなもの、とかね。

久:なるほど。パラレルっていうのはピラミッド型の仕組みのオルタナティブをまず考えたかったのでしょうか。

手:「パラレル」って、メディア論でもあるんだけど、「同じものが2個って一体なんだろう?」ってことをそこで書いていて。だけど同じものが2個っていうのはすでに矛盾した考えで。すでに場所が違うわけだから。

久:観念の中にしか実は同じものが2つはないってことですよね。

手:ピアジェの発生的認識論っていうのと、それから数学の群の考え方とか、やけに難しいこととかやってるんですよ。それでマルセル・デュシャンが出てくるし、すごい一生懸命、毎日少しずつ喫茶店で書いていって。だからそこから抜けられないんだよね。1回考えちゃうと。

久:現代美術の中で、関心のあった運動や作家、この作品とかありますか?その当時、考えるモチーフになっていたような。

手:その中でやっぱり建築の2個つくるような話とか。ジャスパー・ジョーンズのペインテッド・ブロンズの2つあるようなのとか。元々、現代美術ってことで言うと高校の時にアクション・ペインティングのようなことをやってたんですよ。何故かっていうと先生が岡本太郎と井上有一っていうのにかぶれてて、「机の上に乗って描け!」とかなんとか言って。「へえ、面白いな」と思って。物心ついた時から字[書]をやってたので、「これはどのくらいのスピードで、どのくらいの力が入ってんだ」とかよくわかったので、面白いなと思って描いたんです。高校2年だったかな。すごいでかいやつでね。石原慎太郎の『処刑の部屋』のボクシング・シーンを妹に読ませて、それを聞きながら気が狂うように書いたんですよ。でも。違うんだよね。栃木の宇都宮の古本屋でね、ポロックの画集を見たんですよ。それでね、全然やり方が違う。(笑)僕は小筆をこうバサッと切って。あいつドリッピングっていう手法だから、あいつものすごいスピードなんですよ。それ見た時に「あ、これはダメだ。こいつには敵わねえな」と思って。それと割と真面目に一人で描くのをやってたので、気が狂いそうになってて。これはダメだと思って。で、大学に行ってみんなでやれるっていうことで、劇団に入っていって舞台装置をやりました。結局、ジロドゥの『ジークフリート』とかやって。俺はその頃、過激でしたね。結構「これ、違うんじゃないの?」って。こんなみっともない装置つくっても、しようがないって。

久:それは何年くらいですか。大学に入られてから?

手:1960年代後半くらいですね。

久:60年代末。まさに政治の季節ですね。

手:それで俺よくあんなことできたなと。3日間くらい公演なんですね。1日やったじゃないですか。終わった後には僕、それぶち壊しちゃったんですよ。(笑)

久:装置ですか?(笑)

手:装置ですね。(笑)

本:さっき段ボールのあれも壊してましたよね。

手:僕、壊すの好きなのかな。(笑)

久:どういう装置をつくられたんですか?

手:その後は抽象的な木枠の装置に変えたかな。そのくらいの記憶しかないですね。演劇はその後「あ、これは、この人たちダメだ」と思って演出に転向して、みんなでサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』をかなり頑張ってやりました。大学の講堂の中に、コーヒーの袋でテントをつくって。「ちょっと面白くないから首吊って死ぬシーンつくろう」とか言って。暗転した瞬間に一生懸命、いろいろ変なことやってましたね。でもすごい勉強になりましたよ。書道やってて賞はたくさんもらいましたよ。上手でしたから。でも、全然面白くないんだよ。何十回も先生付き添いで書くんですよね。物心ついた頃からやってましたよ。でも、何がいいんだかわからなくなるんですよ。絵でも何でもそうだと思うけど、これが難しいんだよね。自分を客観的に見られるっていうのがなくて、アクション・ペインティングっていうのは客観性なくして突入して、わけわかんないことやるっていうパターンだったので。それは今でも、基本的にはスポーツに近い何かで、瞬間瞬間でこう、っていう感じが好きなんだなっていうのが今頃になればよくわかるんですよね。それで[アクション・ペインティングは]、うちの8畳の2階で書いて、長いからどんどんどんどん窓から外に出てくんですよ。そのくらい大きいんですよ。

久:巻き紙に書かれてたんですか?

手:うん、巻き紙に。それで大学に行った時にそれを1回、ラウンジで展示したんですよ。そうしたらなんか外人の女性が来て、「これ、買いたいんだけど」って言われて、俺「売らない」って。あの時に売らなくてよかった。手元に残ってますからね。私の苦い青春の思い出。

久:本当にこのモチーフ、一貫されてますよね、「その刹那に脳髄をよぎるものを採取・燃焼せよ」って。「採取」っていうのは、定着させることも含められると思うんですけど、かつ「燃焼」させてしまうという。定着だけじゃなくて、それが消尽するところまで含めて作品をつくろうと。

本:しかも書いてる時にわからないって先ほど手塚さん仰ったけど、この間お話を伺った時にビデオも撮ってる時にはわからないって仰ってたじゃないですか。その客観性の間みたいなのがすごいやっぱり面白い。

久:常に客観性と主観性がせめぎ合うような感じがすごくしますね。

手:心、不安定なんだよね。

久:(笑)それで、その演劇の演出をするようになったことと、VICの設立はどのように繋がっていくんですか。

手:演劇的には僕、理論上はね、劇団駒場の芥正彦。撮ってないんだけど、芥正彦が非常にしっかりした理論を持っていて。『ホモ・ルーデンス』っていう本が出たから「ホモフィクタス」っていう言葉をつくったと思うけど、「永遠と退屈の中で、時間の砂漠で遊ぶんだ。小さな混沌を大きな混沌で乗り越えるんだ」っていう持論を。で、ちょっと前衛的なことを自分でやり始めたんです。学校の地下のところで、ものすごいでかい音出してね。ビニールが客席の間に張ってあって、テレビがあって、食事をして、犬が1匹いるんですよ。犬がワンワン吠えてるけど、それよりもでかい音だからね。視聴覚室にビデオがあって。ICUの中で、今流行ってるストップモーションじゃないけれど、みんながじっとしてる中をよくわからない真っ白に塗った女の人が、あっちに行き、図書館に行ったりなんかして、だんだん、だんだん、地下のところまで近づいて来るというのがビデオを通してわかるようになっているんですよ。その時に初めてビデオを使って、「これ、簡単なんだな」って思いました。それでこういう状況なので、僕はテレビっ子だし、もうちょっと普段のコミュニケーションっていうのがあってもいいかなってそういうのがあって。それと大学がもう、学問の府として全然ダメなので、最終思考工房というカリキュラムもつくってね。荒木亨や松澤宥や由良君美なんかのいろんな先生呼んできて。それがVICになったわけです。

久:さきほどの前衛演劇の中でのビデオは、演劇を記録しようとしたんですか? 

手:記録じゃないですよ。もう本当に演劇の中の一部として、道具として使いましたね。「あ、これ使えるんだ」っていうんで。それで学内有線テレビっていうんで、「テレビでもっとコミュニケーションしようよ」っていうのを始めたけど。

久:VICと名付けるきっかけはなんですか?

手:民主主義の落とし子だからね、規約なんかつくってたんだよ。ガリ版刷りの。俺、6年目くらいになったので、1年生をかき集めて、「ビデオ・インフォメーション・センター(Video Information Center)」っていうのをつくって、「ビデオで、情報センターやろうよ」って言って。でも、学生がつくった名前だから契約書とかなんか入れる時長くてね。名前変えるとすごい大変なことになるので......。

本:最初はいろんな先生の講義を撮って、それを学校内のテレビで流して。有線テレビを構築して流していた。

手:そうですね。有線テレビはラウンジでやっていました。その後に有線テレビをやったのは、早い時期に『ポパイ』が取材してくれて。こんな小さいんだけど。ここが、アパート有線テレビ。下5軒、上5軒の。「PARAVISON TEN」っていう名前にしてたんだけど。で、大学は僕が卒業して終わっちゃったので、外でもじゃあ情報センターやろうっていってやり始めた。これ、でもメディアとしてやっていたんです。例えば、街の中にある文字を繋いでいって、その字のところだけ見れるとかっていうアートとしてのやり方もあったんだけど、真面目に「アパート有線テレビ」っていうことをした。アパートの壁をぶち抜いちゃうんですよ。線を通すために。トントンって叩いて、実はこういうことをやりたくてなんとかっていうところから撮ってあるんですよ。だけど最悪で、全員ここに来てしまって誰も見てないっていう。(笑)やることがないんで、将棋の中継とかなんでもやって。毎日1年ちょっとやって疲れて僕、「これ金稼がないとやってけないな」って思いました。卒業して、三鷹の月餅を売ってる店でバイトを朝6時くらいから12時くらいまで、その月餅を車に乗せて、上野とかに持って行って午前中に帰ってくると。そうしたら午後はフリーなので、ビデオの活動とか自分の仕事をやってましたね。僕1回も就職したことないんですよ。その頃は......うちの弟が漫画をこの熊谷っていうのと描いてて、アイディアに詰まっててね。その頃、ちばてつやとか野球漫画が流行ってるから、それよりも「現実はつまんない野球なんじゃない?」っていうんで、この「草野球」っていうの描いて......。

久:野球してないですね。(笑)

本:「以下次回」って書いてる。(笑)

手:だから次回って、これ1回で終わりにさせられちゃったの。ファンレター、三鷹市上連雀、中塚洋子って書いてある。この頃、結婚してたのかな。そこにいますけど。その人がすごく稼ぎがよくてね、翻訳とか通訳やってて。この頃で50万くらい月あるっていう。僕はヒモ状態っていう。(笑)ひどい話だよね。

本:でもこれ、弟さんの漫画なんですよね?

久:ここに描かれてる人物とかって。実はVICのメンバーですか。

手:みんなそうですよ。菅木志雄の弟の菅靖彦も出てますよ。あと、野山。内木くん。石井くんと俺。

久:この漫画はドキュメントでもあるんですね。半分フィクション、半分ドキュメントみたいな。

手:あれなんだよね、妙にアンチ・ロマンみたいなのも流行ってたし、「俺たちこんなつまんないんだよ」っていうのを書いてるんだからこれ、ウケるわけないよね。

1980年頃のVICオフィスと手塚一郎

久:表現したかったのは、未加工である、生であるっていうことなんですかね?アンチ・ロマンと先ほど仰ってましたけれども、リアルっていうのは加工されたものとは違った状態で現れるんだっていうことは、最初の段階からずっと考えられてたんですか?例えば、ベケットの『ゴドーを待ちながら』は、ある種のリアリズム、アンチ・ロマンじゃないですか。

手:そうですね。やっぱりMoMAで日本のビデオ・アート展をやった時に英文で中谷さんが紹介してくれたのを今読むとよくわかるんだけど。つくらずに、人のをただスイッチ押してるだけで何にもやらないみたいな、極めて日本的な発想なんだよね、考えてみると。なんか禅の思想に似てるとかなんとか書いてありましたけど。究極的に日本人の発想なんだなっていうのは、今そのリアルとか何かじゃなくて、ただもうあるがままに存在の在っていうだけの、それから出てきもしないしっていう感覚もあるけど。何もしないと何もしない、じっとしなきゃならない。前から言うようにビデオのボタンをちょこっと押すくらいは参加したかなっていうところですね。

久:前にお話しさせていただいた時に、ビデオには自分で意識できないものがたくさん映ってるっていうふうに仰ってましたよね。撮る時には、きっかけがあるんですか?例えば、ここは残しておきたいとか、何か起きたからそれを映したいとか。

手:ビデオ・インフォメーション・センターのビデオは記録です。例えば僕、一番最初に撮ったのはね、笠井叡の『伝授の門』って僕が撮ってるんですよ。カメラで。まあ笠井叡を選択する段階で、何かが選択されてるんだよね。で、一応撮りに行って。でもね、初めてビデオカメラを持つわけではないが、初めてそういう公演を撮った時の、妙に緊張してる感じとかね。見る人が見るとわかる。もう、ああいうふうに二度と撮れないなと思いましたね。面白いですよ。一番最初にさ、ホームビデオみたいに撮るんじゃなくて、ダンスのシーンをしっかり撮らなきゃいけないんで。面白いよね、一発勝負。

久:その時ってどういうシステムを組んだんですか?

手:ソニーのポーターパックっていうオープンリールと、カメラですね。さっきの「PARAVISON TEN」は、中谷さんとかビデオひろばの人と関係してて、ニューヨークから撮ってきて、そこで放映したりするのもありましたよ。こっちから送ったのはね、小路山荘っていうアパートの前の道路をただ回しっぱなしにしたんですよ。

久:どのくらいの時間を回しっぱなしに?

手:テープが30分だからね。面白いのはね、回してたんだけど、車が来たって避けるしかない。(笑)ああいうのって面白いなとは思いますね。向こうからも送られてきて、ライブハウスのCBGBのトーキング・ヘッズとか撮ったやつ来るんですよ。すごいよね、あれね。パンクっていう感じがいいなって。ジョニー・ロットンとかいて。うちの中に緑川っていうのがいて、そいつがパンク・ロックの小さいジャケットとかを大量に持ってたんですよ。それを1枚の紙に全部こう複写して、名前を「God save the punk」とかなんとかタイトルにして、実に、学生なのに発注先、大日本印刷で印刷してたんだよ。それを1000円かなんかでレコード屋さんで売って、結構売れて。この前ちょっと拡大してやったら、その頃の人が見て、「めちゃくちゃ貴重なものつくってるね」って言われましたけど。まあやっぱり情報センターだから、なんか「今こんな感じだよ」っていうのは......。

久:ということは、ビデオ・インフォメーション・センターですけど、必ずしもメディアはビデオだったわけじゃないってことですね?

手:その時はそれつくって残すっていうのは結構貴重になるだろうなって思って、それでやりましたけどね。

久:ビデオ・インフォメーション・センターだけど、インフォメーション・センターのほうに、力点が置かれてるってことですか?

手:そうでしょうね。

久:なるほど。あくまでもメインのメディアとしてはビデオなんだけれども、情報を共有するとか発信するとか記録するとか、むしろそちらの活動の方が重要だったってことですか?

手:俺はちょっと、それもあるかな。ビデオで体系的に記録ファイリングするっていうのを、何故か誰もやってなかったんですよ。チョロッと記録撮ったりしてる人はいたけど。一緒にやってるやつらは、「もしかしたらこれってお金になるんじゃない?」って思ってた節もあるね。俺は全然そういうの思ってなかったんだけど。で、「騙した」って言われたかもしれないけど。(笑)

久:先ほど、ピラミッド型のメディア・システムっていうメタファーを使われてましたけれども、いわゆるNHKとか他の大手のブロードキャストするようなテレビ局っていうのは例えるなら国軍で、そうじゃなくて、そういうピラミッドのシステムとはまた違うオルタナティブとして、それこそ遊軍というかゲリラというか、そういう形で考えられていたってことですか?

手:映像として残らない、NHKが撮らないものっていうのはたくさんあって。NHKの人が集金に来たんですよ。NHKっていい仕組みだと思いますよ、内容的にはね。「俺を出演させたら払う」って。もう二度と来ませんでしたけど。(笑)

久:その時のテレビってどういう風に思われてたんですか?例えば、お好きなテレビ番組とかっていうのは。

手:印象に残ってるのは、僕、栃木の田舎にいましたけどね、篠原有司男が出てきて、モヒカンで。バケツに塗料に入れて、モヒカン、ブリッジして入れて、道で「わー」とか言って。「うわー、東京って狂った人いるな」って。あとはNHKの第2チャンネルで三島由紀夫が出てきて、初めてしゃべるの聞いて、この人随分理知的な、でも構えてるしゃべり方、優しいしゃべり方をするなっていうのは思いましたね。本当にテレビっていうのは全てのような、「うわあ、こいつすげえな」って思った記憶はありますね。

久:自分でこういうテレビがつくれるというような感覚だったってことですか?

手:そうそうそう。「こんなことできるんだ」って。「こんなに簡単にできるんだ」って。これはやっぱりソニーの業績だなと。

久:VICの他のメンバーはどのように集まったんですか。例えば元々演劇一緒にやられてたんですか。

手:演劇は誰一人やってないですね。中にはやっていたひともいた。

久:そうなんですか!手塚さんだけですか?

手: ICU小劇場がクラブ予算をもらっていて、ビデオ・インフォメーション・センターになるよって、ひどい話ですよ。そうやってその予算使っちゃったの。

久:最初はスライドしたんですね。演劇のクラブが。手塚さんが、メンバーを集められたというような感じですか?

手:そうです。説得して。

久:その時にどういうふうな話をされて、集めたんですか?

手:いや、今言ったような話で、なんか普段のコミュニケーション上手くいかないから、テレビみたいに気楽にね。革マルと中核ってもう、ああなった時点で戦うしかないみたいな。コミュニケーションできないんですよね、先入観があってね。それはもっと長い時間をかけて、普段のっていうふうには思ったけど。その時にそういう説得をして、古屋さんという牧師さんに「こういうのやりたいので、ビデオを買いたいんだけど、お金がないので貸してください」って言ったら、貸してくれたんです。

久:学生運動が非常に盛り上がっていた時期、政治の季節の時に、イデオロギーの先入観でお互いを見てしまうっていう状態があって、その中で、手塚さんご自身のイデオロギーとか、どういうふうに時代とか政治の問題とかを考えられてたんですか?

手:イデオロギーっていう時に、僕は明治時代のおばあちゃんに育てたれた商人の息子なので。おばあちゃんが商売やってて、手塚スッポン店っていうスッポンの生き血を飲ませる変わったお店でした。マムシの粉をペンチでこうやって、コーヒーミルでやって、「はい、3000円です」とかいう流れで来てるから現実的なんだよね、たぶん。気持ちはわかるんですけど、戦うって勝たなきゃいけないのに、出刃包で米軍?自衛?話にならない。あの頃の人って民主的にって討論やるでしょ。なんかね、説得して何かができる。話せばわかるような雰囲気があるから大衆団交に向かうってやってたんだろうけど、商人の息子とすれば、もし、変えるんであれば黙って何人かで防衛大学に入って、ある日突然クーデターみたいなことしないと。だってクーデターやるのに三島由紀夫みたいにあんなに目立っちゃダメだよね。

久:本当に徹底的にリアリストだったっていうことですよね。リアリストだし、ものすごくプラクティカル。

手:でもやっぱり、あの頃見た唐十郎とか土方巽見てると、大体喧嘩なんですよ。喧嘩売ってるとしか思えないんで、そのテンションだけしっかり持ってれば相手が何だろうと......気の強さみたいなのはあの頃ありましたね。

久:手塚さんから伺ったVICのモチーフって、話し合いをしてすごい密なコミュニケーションをとりながらちょっとずつ変えていこうという一方で、そういう非常にプラクティカルなところも感じますね。

手:本来、政治とか社会ってそういうもんだろうと思うけど。僕、商売人だから、スピードなので。実はあんまりそういうの向いてないと思いますね。3年年上の女性の革マルの人がいてね、尊敬してたの。そこに入るか演劇をやるかどっちかにしろとか言われて。どうしようかなとか思って。俺はあいつらとやっても勝てないだろうしな、と思って、演劇やることにしたんですね。僕は小説を書いたり、高校の時に芸術関係の夏休みの論文らしきものを書いて、先生は「君は極めて理屈っぽいし、東京藝大の理屈の多い芸術学科に行け」って言われたの。だけど食べていかなきゃいけないのに、人に必要とされるか必要とされないかわからないようなものでやるっていうのはあんま真っ当じゃないと思って......。

久:すごい不思議ですよね。本当にそこも手塚さんの中でパラレルだなって思うのは、それこそ巻物にものすごい勢いでアクション・ペインティングをする一方で、ものすごいプラクティカルに生活するっていうことを同時に考えられてるっていう。

手:あんなことやってたら絶対もう、食べれない。

久:だって、そっちの方向で行く可能性もあるわけじゃないですか。

手:それほど阿呆になれなかった。

久:どっちかを選ぶということじゃなくて、同時にやるんだということですかね。

手:「食べるミュージアム」っていうのをやりたいんです。人間は生存してて、何十年前でもいいけど、何か食べてずっと生きてる。信じられないよね、ずっと食べてる。食べて生きれば、後どうでもいいんじゃないかと最近思い始めて。難しい国とかね、理想とか、美しさとか。最近ブッダの思想に近くなったの。(笑)

久:その「食べる」の中には、美味しいとかまずいとかそういう要素は?

手:いや、ただ食べて生きてればいいんじゃないっていうのはありますよ。

久:どんなものでも?例えば衣食住が基本だってよく言いますけれども、例えば「衣」に関してとかはどう思いますか?

手:まあ、いろいろあるんだけど、どうでもいいんじゃないかなって。あの、何で服を着始めたのかなとは思うけどね。人間がね。おかしいよね。変態的なんじゃないかと思ってるけど。

久:「住」はどうですか?「住まう」ということ。

手:養老孟司と隈研吾の対談で、養老孟司が「人間ってどういうところに住めるんでしょうか」って。隈研吾が「どこに行っても住めるんじゃないですか」って。でもそれが本当だと思う。彼が原広司と一緒に、『集落の教え』っていういろんなところの小さいやつ調査してたでしょ。あの時見てて、あの影響すごくあるんですよね。ただ食べないと死んじゃうからね。中学生で悩んでる人にね、「元気に食べて生きてれば後はどうでもいいんだよ」って言うけどね、どうも通じてないみたいだね。不思議だよね。VICをはじめた時に『Whole Earth Catalog』があって、あとバックミンスター・フラーの、「グローバル・ヴィレッジ」っていうので、でも今から考えれば、ビデオも若干このアーカイヴの考えのそれに近いのかも。世界はなんとなくこの百科全書を読めば全部わかる、とかね。俺、そんなこと絶対ないと思うよ。これを見てれば、これが世界だって言えるものは、その考え方そのものはもう随分くたびれてて。一時期ね、大量生産で田中角栄なんかが頑張った時に、高速道路通してこうやって豊かになるんだっていうのあったけど、もう、そういうことを言う時代でもなくなった時に、博物館とかね、なんか一括りで世界をわかろうとする考え方。仏教はそういうことは言ってないんだよ。自分でやってて自分のこと否定してもしようがないけど。でもきっと変わらないんだよね、大してね。

久: VICの活動で特に記憶に残っていることってありますか。

手:俺一番残念なのは唐十郎のやっている状況劇場のピークを撮れなかったんですよね。つまりあれは、僕は演劇をやってたからよくわかるんですけど、『腰巻お仙』の台本読んでも全くわからないんですよ。現場を見ても。それをね、撮りたかったんだけど。だってあの頃の演劇、笠井叡もそうだったけど、記録する、撮る、残すっていうのは演劇っていうは1回性だから、そこに賭けてるっていう人もたくさんいたから、何で記録するの?っていう人がたくさんいたんです。それで撮れなかったり。

久:当時は記録するのが格好悪いっていうふうに思われていたということですか?

手:格好悪い。何でそんなことするのって。

久:むしろ1回性のほうが重要だという。

手:だけど記録するようになってきたらさ、だんだんもう勝手になるんだよ。唐十郎が「今度ニューヨークでやりたいんで、全部Uマチックで用意してくれ」って。

久:むしろ積極的に撮ってくれっていうふうになったんですね。

手:なったんです。だけど、特に天井桟敷の寺山修司は初めから撮ってヨーロッパなんかに行こうとしてるから。あいつの演劇色彩なくて、わけわかんない真っ暗なんだけど、ビデオのためだけに明るくするんですよ。そうしたら唐十郎もだんだんそうなってきた。あと、情報美術館、「ソフト・ミュージアム(Soft Museum)」っていう企画をつくって、中谷さん、中原佑介、針生一郎、山口勝弘を審査員にして、情報美術館つくろうと思った。中谷さんにあっちこっち連れて行かれて、栃木県立美術館に「これやりませんか?」って提案したら「ダメだよこれ、早すぎるよ」って。「それより君、栃木に帰ってきてうちの学芸員になりなさい」って言われて。「冗談じゃないよ、栃木なんていやだよ、東京に出てきたのに」って。その人は大島さんっていうね。

久:「ソフト・ミュージアム」の発想って、それを更に後世の人に伝えるとか、今生きている人に普及するとか、そういうものだと思うんですけど、撮ったものを歴史として後世の人たちに伝えるとか、今それを例えば海外の人に見せるとか、そういう発想あったんですか? 

手:要するに、なんかこれ「ビデオを撮っとかないとわかんないことがあるんだ」っていうこと。でも、都内の新宿の監視カメラの画を全部集めるっていうのは、違うだろうっていう意味で、時間をこう飛ばすっていうか。自分がやってるけど100年後に誰かが見ててっていうのを想像するとちょっとにんまりするっていう、そういう、「なんかわかる?」っていうような発想があった。(笑)今IT化されて、本当に「グローバル・ヴィレッジ」じゃないけど、情報は瞬時に世界に行き渡るけれど、時間をこう飛ばすっていう作業をあまりどこもやってない。博物館的情報に関してね。撮ったビデオが時間の中でどうなるのかっていうのをやりたいなと思ってたけれど、ビデオ・テープってああいうふうにカビてダメになっちゃうわけですよ。ソニー、パナソニック、ビクター、富士フィルムも、テレビでさ、結婚式撮ったり子どもの何か撮ろうって散々宣伝してて、全部ダメになってる。すごい詐欺でしょ?

久:思い出を残そうってよく、キャッチコピーとして聞きますもんね。

手:結婚式も何も残らない。残るわけないのにさ。機械がなくなっちゃうんですよ。時間をもうちょっと考えるのは面白いかなと思いますけどね。

久:フィルムはまさに時間差をつくり出すものですけれど、テレビってずっとリアルタイムを追い求めてきて、まさにそれが今砕け散ったような状態じゃないですか。どこにいたとしても例えば監視カメラの映像がハッキングしたら見られるし、それこそ24時間自分たちの生活を、パソコンに付いてるカメラから発信できちゃうし。そういう状況の中にあって、例えばそれをずっと記録してどこかにストックされていたなら、100年後も見られる可能性があるじゃないですか。

手:現場の証拠写真のように、「あ、あれ何だったんだろう」ってよく見たらアントニオーニの『Blow-Up』[邦題『欲望』]っていう映画にあるように、愛のシーンだと思ったら殺人のシーンだったっていう。そういう面白さっていうもの、見えないものがたくさん撮れている。見えないものがたくさんあるんだっていう感じがしますね。

久:これはどう思います?例えば8億の人が全員自分の生活を録画している。編集もしている。ものすごいデータ量あるっていう時に、果たしてそれを見る人がいるのかとか。誰に向けられた記録なのかとか。それは何のためにあるのかとか。

手:その無名性みたいなものは最終的にはいいんじゃないかなと思うしかないですよね。だってすでにこれ撮ろうと思った段階でもう編集が入ってるわけで。だってさ、ITで進化する......俺、電話してこないやつ失礼だと思ってるからね。メールで何でもやる?って。何かヴァーチャルな中でわかったつもりになる......ヴァーチャルって大体ごく一部の感覚しか働いてないから。それはニューメディアって言われたビデオが現実の代替になるかって、決してならなくて。限りなく取り返しのつかない時間を生きてるじゃないですか。

久:例えば、ままごとみたいなリアルなコミュニケーションのトレーニング装置、幼児的な教育装置みたいな部分もあるだろうし、一方でもうちょっと情報にアクセスするための非常に便利なツールっていう要素もあるでしょうし、必ずしもその中で自分のリアルを切り閉じるっていう人ばかりではないと思うんですけどね。コミュニケーションに介在するテクノロジーっていうのは距離の質をつくり出すものでもあると思いますし、距離がどういう距離なのかっていう設定をするものでもあると思うんですね。だから選択肢が増えたと言えば、そうかもしれないですけど、何にリアリティを置くかっていうのはやっぱり人それぞれ違うかもしれないですね。

手:電話とかITって、電気がなくなると何にもなくなるからね、言っとくけど。(笑)とんでもないことになる。

久:紙とか、強いメディアってものの量がそのまま情報の量になるけれども、デジタル・データの良さっていうのは圧縮できる。だけど、より圧縮度合いが高ければ高いほど、メディアって脆弱になってくっていう、逆の流れが。

本:私、本当に圧縮ファイルで展開できなくなるファイルいっぱい持ってる。

手:大量の情報の中にいるから、どこが自分のセンサーに引っ掛かるかってわかんなくなるんじゃないですか。それもさっきのあれと同じように百科全書的でね、何か情報を紙じゃなくてその中に置いてコントロールしようとしてるでしょう。その考えが......、なんて言ったりしてね。評論家ってみたいになってきちゃった。

久:デジタル・メディアの隆盛って僕の学生時代と一致してるんですけれど、全てデジタル・データに置き換えられるならば、今まで書かれてた本もこれから書かれるであろう本も、01の数列でしかないから、全てシミュレートできるだろうと。その典型的なユートピア思想に近いような発想って、新しいテクノロジーであればあるほど抱かれやすいですよね。70年代って、まさにそういう時代の境目だと思うんですけど、そういう時代からスタートされてるじゃないですか。まさにテクノロジーの境目みたいな、芸術の境目もあると思うんですけど。

手:でも卒論でああいうふうなことをやって、メディアで何かを、ってやってる時に、結局自分のこのひとつの肉体のセンサーを何らか、拡張か模倣していくと、行き着くのが自分の等身大の自分でしかないんだよね。これ、いわば孫悟空の世界で。いくら頑張ったって、自分がわかることしかわかんないんだからね。わからないことはわからないってなる。なんかそういう感じがしてしようがないですね。でも一般的にはね、メディアでテレビでなんとかやって、流行りはありますよね。今こういうところに情報なり何なりが集約されているみたいなことはあるだろうと思う。それは別に正解でもないけど。まあ商売上はそういう傾向をうまくキャッチしてやるみたいな感じなんだけど。僕、テレビっ子でしょ。芸能、スキャンダル、ワイドショー大好きなんですよ。

久:今でもご覧になりますか?

手:見ますね。テレビのワイドショー見てて、ここで俺が真実が見えなかったら一生見えないなって思って、かなり真剣に見てるんですよ。(笑)

久:テレビを見てたとしても、その裏側に辿り着きたいっていう欲望はあるんですか?常に。

手:裏側っていうかね、「これは一体、何が起きるだ?」っていうのを見て、「これは嘘だろうな」とかね。ある程度、そういう感じはありますよ。目の前のものなんだよ。

久:見定めたいというか。

手:割と見る、そういうのが好きなんですね。参加しないでね。

久:ビデオを撮るということと連続してますね。ビデオ・インフォメーション・センターの活動って、手塚さんからいただいた名刺にはVICって書かれてましたし、名前が連続してるじゃないですか。ずっと記録をされてたり、アパート有線TVだったり、あとパルコのワークショップ、ビデオ・ステーションだったりとか、多様な活動をされてて、それが移り変わってきた時期というか、どういうきっかけで、っていうのはありますか。

手:今、「いやあ、これ撮っておいたほうがいいんじゃない?」って思うのはちょっとあるけどね。ただビデオ機器が普及して、ほとんどの人が一応、撮り始めてる。で、わざわざ撮らなくてもいいやっていうのはあるかもしれない。でも、冷静に考えると100年後にこれが面白いっていうのを気がついてない、撮らなきゃいけない何かは、なんかあるような気がしますけどね。ごくありふれたものをみんな撮ってるから。絶対的に意味不明で、100年後にも意味不明なものを撮りたいですね。

久:いいですね。(笑)確かに自分の記憶をなぞるようにというか、社会的な一般常識をなぞるようにというか、再認するようにというか。知ってるものをみんな撮りたがりますからね。記録もそうですよね。対象ってものすごい自分の先入観に影響されちゃうんで。

本:しかも今、「ここで撮れ」っていうのが被写体から提示されるからね。インスタとか、ああいうのが流行ってるから、「ここですよ」みたいの、昔に比べてすごい目につく。昔だってもちろんあったんだけど。

久:もうひとつ思うのは、未加工で生々しいもの、例えば、食べかけの今何食べてるか写ってるような写真ってやっぱりなくて、みんなお洒落に見えるように、ちょっと格好いいと思ってもらえるように撮るっていう。この「食べてる」っていうことがメインではなくて、「私の生活を格好よく思ってほしい」っていうことがメイン、情報として。全然違うモチーフ。

本:今、撮る時って絶対誰かに見せることを前提にしてみんな押してることが多いですよね。そうでない人ももちろんいるだろうけど。

久:だから100年後の人に見せようと、思ってるわけじゃなくて、やっぱり今この同時代で繋がってる人に向けられたものばかりっていうのは状況としてはあるでしょうね。

本:ある種、すごくよそ行きの記録が多い。

久:手塚さんご自身は、VICの前期の活動と、今の活動、例えば吉祥寺のコミュニティに介在してその活性化するような活動をされたわけじゃないですか。横丁の話っていうのは、実は初期の活動とも連続してるような活動なのかなとも思えるんですけど。

手:何か始めるきっかけって、誰もやってないし面白そうだなっていうのはあるでしょうね。捻くれてるからみんなと同じものは徹底的に嫌なんでしょうね。みんながこっちに行くと、絶対行かないタイプですよね。「行けば。」みたいな感じになっちゃうからね。写真も中平卓馬の『来たるべき言葉のために』とか、ウィリアム・クラインのブレ・ボケの世界からかもしれないことだけど、ボケたり何かするって違う表現になるんだろうし。で、いろんなカメラマンが見たことのないシーンを撮りたいと思うんだけど、かなり難しいよね。大概、見たような風景しか撮れなくて、それだけ集めると本当につまんなかったりね。退屈してるんだよね。パッと見て「あれ?」っていうようなものがないんだよね、最近。そう思わないですか?

久:ハモニカ横丁をつくっていこうっていうことと、例えば「PARAVISON TEN」をやろうっていうことって、どちらもコミュニティに積極的に介在していくことですよね。手段は違うけれども、似てるような気がするんですよね。その連続性とかどうお考えですか? 

手:ソニーのビデオの普及係みたいだったから。ソニーのために考えたようなところもあると思うよ。それがあまりよくないって思い始めて。どうやったらソニーが嬉しがって、喜んで、お金出すかっていうふうに発想になってきてるのが、自分でもだんだん嫌になって。

久:それが何年くらいですか?

手:1990年代後半ですよね。で、もう飽きてて、焼き鳥屋始めた辺りで、スポンサーなしっていうか、相手がつくったもの売るんじゃなくて自分が好きにやれるので、非常にフリーハンドになったって感じがしましたね。速くなったっていう。

久:横丁をつくることって、コミュニティをつくることですよね。そして例えば、アパートで「PARAVISON TEN」っていうのもケーブル・テレビっていう形でコミュニティをつくっていくっていうことですよね。

手:コミュニティつくるのかな。つくるっていう意味で言うと、世界最小のテレビ局って面白いなって。ちょっと驚くだろうなって。そういうことなんですよね。横丁でつくるっていうのは、例えば、六本木ヒルズみたいなもので、ホワイト・キューブっていうか美術館みたいに何もない更地をつくって、そこに建築を建てて面白いと意図的に思えるものを持ってきてっていうやり方は......俺は字を書いてたので、つくるっていうのはそういうふうにできないっていう確信があるんですよ。横丁って元々戦後の闇市の中で、食べるため生きるために闇米とかやり始めて、こうなってきたんです。計画的につくれるもんじゃない。横丁もよくよく考えてみると、それぞれの人がそれぞれに工夫して、棚つくったり庇つくったりしているので、集団で大きく動くかっていうんじゃなくて小さく動いてるなっていうふうに思っていますね。横丁の良いところは長年考えてきて、「小さくて狭い」っていうことがあって。近いと、男性の場合よくわかるんですけど、女性はね、例えば僕とあなたで5センチ以内で近づいてしゃべったりすると、違う機能が働き始めるんですね。頭の中で。肉体的なもっと違う付き合い方みたいなのができるのは、「狭い」からなんで。一番重要なのはね、僕何故こんなこと言い始めたかと言うと、吉祥寺って家賃が高いんです。不動産の問題なの。だから自由じゃないんですよ。だから極小の空間の大きさを大体決められたりして、家賃5万円で50戸つくるプロジェクトとかね。それで形のない極小で。極小って日本に元々ほら、茶室の文化があるじゃないですか。あれもよくわかんない。

:緊張感と親密さを同時につくりだすような。

手:和風のね、「どうだ、格好いいだろう」みたいな感じって。俺、ああいうやつ嫌いなんだよね。要するにね、センスも良くてわかるけど、もっとアッケラカンとできないのかなっていうふうに。

久:もっとノイジーなほうがいいっていう感じですか? 

手:いやあ、誰にでも喧嘩売るほうだからね。隈研吾とやった時に、タイトル、「敵は利休にあり」っていうのやったんですよ。

久:(笑)何でですか?

手:格好つけてる......。あれうるさそうじゃないですか。作法とか、美はこうだとか。庶民はそんなのどうでもいい。俺は岡本太郎派なので、「爆発すればいいんじゃない?」っていう論法なので。(笑)でも一気にコマーシャルの世界に入ると、全くあの手法役に立たないんだよ。

久:何でですか?

手:何故でしょう。うーん。たくさんの人を相手にしなきゃなんないから、商売ってね。少数派のアートみたいなのって、極力......。

久:感性とか趣味とかがある程度共有されてないと、っていうのはあるかもしれないですけどね。

手:菅木志雄が盛んに言ってたけどね。つっぱんなきゃいけないけど、ある程度大衆的でわかりやすくならないとダメって。これはたぶん富岡多恵子の言ったことだと思うけど。最近見て面白いなって思ったのは、ソニービルの地下3階4階にある「ザ・パーキング」。ちょっと面白いなって思ったけど。どうもね、日本の美学って引き算なんだよ。だったら俺が、引いて引いて、露骨に現実が見えるようにしてやろうかな、とか思ったりね。捻くれて考えて。

久:なるほど、引いた果てにね。

手:もっともっと引いちゃおうかなって。

:面白いですね。横丁っていうのはそういうものなんですね。

手:ただほとんど日本人落ち着くっていうのは木なり、自然だったりするのも、引き算の究極みたいなの。ドカーンとでっかいのつくったりなんかすると、あんま落ち着かないんですよね、日本人ってね。盛んに隈研吾が「木だ、木だ」って言ってるけど、彼の「木」、燃えない木だからね。あれ燃えないように加工してるんですよ。だから俺、「燃えない木は木じゃない。燃えてなくなるからいいんだ」って時々言ってかかってるんだけど。そういう文化だったでしょ。昭和で戦争に負ける前は、みんな台風が来たら壊れちゃって、火事になったらダメになって。またそこに建てるわけですよ、バラック。それが燃えないようにしよう。安全にしよう。コンクリート、鉄でつくり始めるでしょ。それが大変なことになる。

久:ノイズってやっぱりそうですよね、ある程度の劣化なり蓄積があって、そこに介在して初めて面白いリフレクトが生まれてくる。でも時間が経てば、真新しい場所ってそういう場所にはなっていくとは思いますけどね。

手:だってさ、「つくりました。どうです、素敵な空間」っていうのをつくる建築が上手なんですよ。そういうの僕、嫌なんですよ。なんかよくわかんないけど、なんか面白いんだよねっていうところまで行けないかなっていうふうに思ってるのはあるからね。だからみんなが「ダメだ」って言うのが、「いや、それもいいんじゃない?」っていうのがね、天邪鬼に考えてるうちに何が何だかわかんなくなる場合がありますよね。

久:建築だけ実は結構特殊だと思うんですけど、例えば洋服だったらダメージジーンズって経年変化させた状態で売ったりするじゃないですか。でも建築って、ものすごくそれを嫌がる。やっぱりみんな新築に住みたいっていう人が多いし。そういう流れが絶対に入ってこない領域っていうか。味のある場所に住みたいっていう人が......。

本:古民家再生系とか流行ってない?

久:ダメージジーンズ系もあるけど。建築家が建てるものじゃないよね。

本:まあ、建築家側はね。住み手側はちょっとそういう傾向あるけど。

手:ビルバオのグッゲンハイムみたいにね、街が一気に盛り上がるっていうものを、欲しがってるんだよね。

久:でもさっき話してたように、更地から何かをつくることと、すでに在る形の中にそこを上手く利用して形を当てはめていくことのその大きな違いなんじゃないですかね。ゼロからつくることって、実は極端な話、模型をつくらなかったとしても設計図さえあれば出来てしまう、建築家の仕事ってそこで実は終わっちゃうじゃないですか。だけど内装の人たちはデザインをして、それがどのくらい実現できるかまでもコントロールしなきゃいけない。そこの具体性に関わる度合いも違うし、在るものからスタートするのか、無いところからスタートするのかって、やっぱり全然違うのかなって。

手:何もない空間って絶対にないんだよね。必ずどこかに在るんですよね。地形の中にあるし、空気もあるし、風もあって。それを何もないとして何かをつくろうと思ったのが、近代の芸術であり、建築だったと思うんですよ。ハンス・ゼーデルマイヤーっていうのが、抽象と偶然と幾何学とっていうふうに核心だと言っていて、確かにそうだなと。だけどもう、その時代が終わって開き直ってどうでもいいんじゃないって。こだわりのない隈研吾が強いわけ。だってあの人、仕事何でも受けるよ。

久:最後のまとめの質問をさせていただければと思うんですけども、VICって手塚さんにとっては何ですか?

手:うーん......自分が何かやるっていう意味では、まあ大して変わったことできなくてもいろいろなことをやるっていうね、よく見ればね。でもグループとして考えれば、やっぱり記録をすることを終わって、最後大変だったんだよ。もうみんな疲れて、特に野山くんってすごいよくやってくれていたんです。だけど、最後のところでこう言ったんですね。「もう撮ってもしようがないじゃないですか。撮るべきもの、ないですよ。」彼なんか大駱駝艦、毎月撮ってくれって言うから撮りに行ったわけですよ。タダですからね。だけど、撮影して僕モニター見て、彼が撮ってるんだけど、画面からダンサーが消えちゃうんです。「あれ?どうしたのかな」って思って、もう寝てるんですよ。そのくらい退屈なんですよ。前から、あの時代の演劇か何かって、変えることができる。自分は何かダンスすることによって変身できるんだって感覚があったんですけど、実は人間は変身できないんですよね。(笑)

久:動きの中では変わってる人はいると思いますけどね。

手:こっちから見て変身するっていうか、自分が変身したいと思って、こう気合い入れて動いてるんだけど。「見ててもしようがないかな、これを」って言いたいくらいの。たくさん見ましたからね、これを。脇からたくさん見て、もう寝てるっていう時に、これはもう無理だよなと思いましたよね。最初はそれなりに面白かったり、大野一雄を撮った辺りは、「おお、結構面白いじゃん」っていうこともあったけど。後半はもう唐十郎のところの李麗仙もそうだけど、「今度こうやるんで撮ってくれないか」って、向こうから言われるようになってきて、これ撮っても残してもしようがないでしょって。

久:逆ですね、最初のモチーフと。

手:日常的になってきた。で、食べていかなきゃなんないんで、情報機器としてのビデオをビデオ専門店で売っていった流れと。それで、横丁にビデオ・テープ専門店を出した流れが出てきた。

久:それはいつですか?

手:1981年か2年くらいでしょうね。で、出したのが今の横丁との関わりになって、何が何と繋がっていくかっていうのは......その中では結構、つくるつくらないっていうことも含めて、何か現実の中では動いていて、起きていることがある。これはドラッガーが言ってることなんだけど、新しいものは外から来るから、目の前にチャンスがあるのに見えないのがほとんどなんです。それをなるべく上手くキャッチできるようにしないといけない。何かが常に起きてるんだけど、自分に見えない、感覚できないものがたくさん。やっぱりビデオと同じですね。商売の話すべてね。いや、もっと早く好きだって言ってくれればよかったのに、って話たくさんあるでしょ?僕、何でも興味を持ってて。......それ[VICビデオ・テープのリスト]見るとわかるよね、どんな時代なのか。しっちゃかめっちゃかだよね。入ってるのが。


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